少年の力ない身体は、赤く汚れた白い布に横たわる

荒い息も段々と希薄になり、虚ろな眼に生気がこもらなくなっていく

少年の瞳から流れ落ちた涙は、死への喜びか―…

それとも……



[優しい腕]



「くそぅっ…―!!手遅れだった…手遅れだったぁっ!!!」



 悠離は息もしない少年の身体を力いっぱいに抱き締め、

らしくもなく銀の美しい髪を振り乱しながら、拳が赤く染まるまで

石で造り加工された壁を叩いた。

悠離の拳が鮮血の弦を引いても、壁がひび割れ血が染み込んでも

悠離は手を止めなかった。行き場の無い怒りが壁にぶつけられる。

赤く染まった少年の胸元。

グレイの放った銃弾。少年はそれをまともに受けたのだ。

それも2発も―…

辱められ絶望に追いやられたこの少年の身体には

あの鉛玉は耐えられるものじゃない。

閉じられた少年の瞳。

あの幼さと妖艶な色を持った、アンバランスなだけどとても惹かれる眼。

もう開くことは―…否!悠離はそれを認めなかった…!

悠離はそれを受け入れなかった。

自分でも理解のしようがない。このらしくもない感情。

助けたかった!なんとしてもこの少年を救いたかった。

しかし、少年はもう息をしていない。

体温も段々と無くなっていく。

どうしようもない、死の鎌が完璧に振り下ろされようとしている。

もう無理なのか―!?悠離が半ば諦めようとした時、ハッとした。



……体温が無くなっていく?



少年の身体はまだ死んで間もないのだ。

悠離の口の端が少し上がった。

助けられる!そう確信したからだ。しかし、つかの間もなく

悠離の顔は困惑の色に呑まれた。

悩んでいるのだ。助かる手段はあまりにも残酷なことだから。

しかし、一度少年の生気の無い顔を見ると悠離の困惑は

吹き抜ける疾風のように消え去った。

そして決意した。例え恨まれたとしても、それで構わない。

悠離は糸の切れた人形のような彼の身体を支え、ゆっくりと

自分の方へと近づける。まだ微かな体温が感じられる。

愛しいそうに身体を抱き締め、少年の耳元にそっと唇を近づけ…



「私はまだ、お前と話もしていない…」



 そう囁いたと同時に、悠離の端正な顔は少年の細い首へと流れた。



ガリッ



「ッつ…!」悠離は己の唇を噛み、血を滲ませた。

そしてそのまま、悠離は少年の首筋に少し血に汚れた

鋭い牙を容赦なく突き立てた。

もう流れない筈の少年の血液がドクドクと悠離の喉へと流れていく。

しかしこの行為は別に悠離の喉を潤す為の行為ではない。

少年を助ける唯一の方法。

それは―…



彼を仲間にすること



 己の血を相手に混ぜ、その血を吸う。

どういう仕組みかは、全く見当がつかないがこの行為によって

血を吸われた当人は吸血鬼へと変じていく。

吸血鬼となる事で、吸血鬼特有の異常な回復力を身につけることができる。

間に合えば、それで助かる。

しかしこれは禁じられた行為。

少年を完璧な化け物にしてしまう。

ましてや多種族の者を仲間にするなんて―…それも純血を統べる闇の王が。

グレイの言うことも最もだと思うが。悠離にとっては、自分の地位や

一族の血の繋がりよりも、目の前で命の灯火を失おうとしていた

この少年のほうが何よりも大切だったのだ…



少年の首筋からそっと離れる。

そして仕上げに、少年の紅い胸の前で、指先で純血だけに伝わる印をきる。

これで“儀式”が完成した。この仕上げがなければ、仲間にすることはできない。

完全に死んでいなければ、一族に加えられるはず…

そう思ってはいながらも悠離は不安だった。

あまりにもギリギリだったのだ。この少年の状態が。

もしも真に手遅れだったら、少年の身体はゆっくりと薔薇の花びら

となって散っていく。そうならないように、悠離は祈った。



「う…」



 少年の唇から、小さな呻きが漏れた。

間に合った、助かったのだ…

そしてこれでこの少年は、闇に生きる化け物と―…

いや違う…何か違う。

この少年は、吸血鬼にはなっていない―!?

変化がないのだ。牙も鋭くならず、肌の色も一向に青のまま。

だけど、傷は治っていった。まるで時を戻すように

少年の身体からあの鉛玉が押し出され、シーツの上に静かに落ちた。

―何故?!何故、この少年は仲間にならなかったのだ。

悠離は必死に考えた。だが、辻つまの合う答えは全く見出せなかった。

悠離は知る由もない。

昔、あの少年の身体にスゥから注がれた毒が、身体に残っていて。

その強力な毒が吸血鬼と変わる一種のウィルスのようなものを破壊したのを。

そして破壊されてもその異常な治癒能力は一時的とはいえなんとか残り。

少年の身体を癒したのを…。誰も知る由はなかった。

 悠離には考える時間は皆無に等しかった。

少年は命を吹き返し、それと同時に少年の心の内が

悠離の意識に濁流のように流れたのだ。



「ぅぐっ…!」



 思わず声に出してしまう、意識を失っている者は精神が解放された状態にある為、

心のガードがいつも以上に無防備だ。

心の奥底の願望・欲望…それが全て頭の中に流れてくるのだ。

身体が自然とふらつく、しかしいつまでもここにいる訳にはいかない。

むしろ今の今まで、ここの城主が来なかったのが幸運な位だ。

悠離はふらつきながらも、少年の身体をしっかりと抱き締め。

背の羽を巨大化し、一気に羽ばたかせその風圧で壁に穴を開けた。

悠離はそこから身体を重力に任せる様まっ逆さまに

落下させ地面にぶつかる寸前のところで、その漆黒の身を翻し

暗雲立ち込める大空へと舞い上がった。





…ゃん…スゥ…にいちゃん…スゥにいちゃん…!

好き…大好き、傍にいて、傍にいさせて…ずっと、ずっと傍に…



許せない―あの男…スゥにいちゃんに渡すはずだった

あの―…あのイヤリング!返して、返してっっっ!!





 ずっと流れ続ける、少年の心の声。何度も何度もこれの繰り返し。

たった二つの本音。想い人への言葉と、あの城主に対する憎しみ。

これしか無い?これしか無いのか、この少年には―!?

いや、これしか無いからこそ強いのだろう。

あまりの想いの強さに、眩暈がしてしまう…

どちらにも深く関わっているのは、“スゥ”という男。

この少年を縛り付けるこの男…何者だ。

 そんなことをいつまでも考えながら悠離は飛び続けた。

向かっているのはここ―メルヘン王国―と地球を結びつける狭間の空間。

ここはあまりにも、この少年には向かない。

こんな汚れた場所にこの子はあまりにも不似合いだ…

地球もそれほど美しいものではないが、ここよりはずっとマシな場所だ。



「う…」



 腕の中で少年が身じろぎをした。そしてゆっくとあの赤い眼が開かれた。

少年は虚ろな表情でこちらを見ていたが、すぐに意識を取り戻したか

はっきりとした顔で私のほうを見つめた。



「目が覚めたか?」



暗い世界が続いた、死ぬ瞬間というのはなんと恐ろしいものだろうか…

と思った。凄まじい苦痛の中、たった独りで死んでいく。

凄く寂しくて怖かった。なんだか昔にもこんな苦痛を味わった気もするけど

そんなときよりももっとずっと、怖くて寂しかった。

だけど、何故だかは判らないけどゆっくりと確実に

生命がまた僕の身体中を駆け巡った。

死んだと確信したハッキリとした意識は、ゆっくりと虚ろになり。

虚ろんだ意識は光を見る為に開いていった。

最初は全部ぼやけていて、何も判らなかった。

だけどそれは意識と一緒に覚醒していき、最初に目に飛び込んだのは。

あの狂気の男ではなく…―



あの真っ青な深い海のような瞳。



「目が覚めたか?」



 あの蒼い眼の人は、そう優しく話し掛けてくれた。

夢かと思った。あの人がこんな近くにいるなんて。

自分を好奇な目で見つめなかったたった一人の人。

憂いを秘めたような蒼い目の人、その人がまさかこんな近くに…

近くで見れば見るほどに、心臓が早鐘のように鳴り続けている気がする。

あの時は仮面で見えなかった、端正な顔立ちがこんなに近くで…!

思わず手を伸ばし、その美しい顔の輪郭をなぞった。

彼はその手を払ったりせずに、じっ…と優しい眼差しで僕を見てくれていた。



―ああ、やはり貴方は違う



そう心の奥で呟いた。

だけど彼はその声が聞こえたように、表情が一瞬だけ変わった気がした。

それが気のせいか否かは、今のこの少年には判断出来かねなかった。

少年は幼子のように、悠離の漆黒のコートを握り締める。

頬を突き抜けていく風が怖いわけじゃない。

地上がずっとずっと下にあるのに戸惑っているわけではない。

怖いのは、あの檻の中から出た。という安堵からの恐怖。

そして、少しずつ広がっている自分の“狂気”

まさか…とは思っているが、普通でいるはずなのに頭がおかしい。

胸のうちで気狂いじみた笑いをこぼしている自分の姿がある。

徐々にそれが表に現れる。意識はしっかりしている。

しかし



「ひ、ひひっ…ヒヒヒ…」



 必死に口元を押さえ、にやついた口を隠そうとする。

笑いがこぼれる度にその表情も狂気を秘めた笑みになり

狂った理性をとめるように本能があの瞳から涙を落としていく。

宝石は雪のように地上へ落ちていく、悠離は全くそれを見ない。

こんな状況でも、眉一つ動かさなかった。聞こえていたから…

彼の声が、彼が狂った笑みを浮かべる前から…

そして覚悟をしていたから。あの男の元で正常な意識を保てるものはそういない。

それを悠離は心得ている。充分な位。



「ヒヒヒ…ひっひっひ…あ、は…あははははっ」



 零れる涙の隙間が縮まっていくほど、少年は笑う。

恐怖で発狂はしない、安全な場所になった途端に、“恐怖”は“狂気”と名を変え

人の理性を蝕んでいく。先に絶望をした者はこうなるしか道が

見つけられなくなっている。しかしそれを責めることは誰にも出来はしない。

絶望が深ければ深いほど、その者は耳も目もなにもかも塞ぎ他者を受け付けなくなる。

人の心が聴こえて来る悠離には、それすらも感じてしまう。

狂わない者が狂う者の心を見るのは、苦痛を通り越し

ただただ呆然とその光景を見るだけしか出来ない―だけしかしたくない―

―だが、この少年では話は別だ。

悠離は“狭間”の近くにまで辿り付くと、

一気に翼をたたみすらりと風のように着地し木陰に身を潜め、少年を地に下ろす。

少年は喉を押さえながら、涙を流しながら笑いを苦しそうにこぼしていく

自分の首を締めている、声を殺すためか自分を殺すためか

少年から離れた悠離にはその判断では出来なかった。

悠離は懐から薔薇を一輪取り出し、まるでマントを翻すような行動を

とったかと思いきや、一輪の薔薇は薄い紅色の衣に変化し、優しく少年を包み込んだ。



「フフ…あははは、ひひひッ…ひひっ、ひ…ゥに、い、ちゃん、逢い、たいよ…」

「ならば歩け。そして捜せ。泣いているだけでは

その苦しみからは永久に逃げられんぞ」



 悲鳴のような狂った笑いと、嗚咽を漏らしながら、泣きじゃくる少年に対して

悠離は剣のような鋭い声でハッキリと言い放った。

少年は俯いていた顔を上にあげ、悠離を見据えた。

表情はしっかりしているように見えるが、

漏れる息が微かに荒く肩も小刻みに震えている

発狂はしてなくとも、まだ正常には戻れていないようだ。



「本当に、貴方は、違うんだね…」

「……何がだ」

「あの偽の吸血鬼とは違う。貴方には…ヒッ、翼がある…ヒヒ」

「珍しい奴だ。純血の吸血鬼を知っているとはな」

「ジュンケツ?…フフ、ボクは翼をもつ吸血鬼しか知らない。だから

あの城の吸血鬼は、はハっ、吸血鬼…じゃないっ…!」



 震える肩を押さえながら、少年は必死に喋る。

悠離自身も余裕な態度をとっているが、内心では

どうしようもない衝動に流されかけている。自分では全く説明がつけられない。

ある衝動に。ある感情に…



「クッ…アナタが、助けてくれたんだね…」

「余計な世話だったか?」

「…殺して欲しいと、そう願った。誰かがそれを叶えようとしてくれた…、

だけど、死の世界は怖かった…今も自分が怖い…

そんなボクをアナタは助けようとしてくれる…っ」



 必死に話そうとしているのだが、狂った理性が身体を痙攣させ

少年の意識・肉体を苦しめる。少年はまた顔を伏せ、両手で己の身体を抱き締める。

悠離は一瞬手を伸ばし、すぐに戻した。

少年は再び顔をあげ、悠離を見る。

その表情は優しく微笑んでいるように見えた。



「ありがとう、助けてくれて…」



 そう言って、少年は悠離の手をぎゅっと握り締めた。

悠離は何も言わず、少年を必死に見つめ続けていた。



「…名前、教えてくれない?」

「……必要なことか?」

「知りたい、知っていたい」

「知っても何もいい思いはしない。聞くだけ無駄だ」



 悠離は少年からそっと、目を逸らし立ち上がると同時に

少年の華奢な身体を抱き上げた。薄紅色の衣の裾がふわりとなびいた。

流れる意識を無視しながら、悠離はそっと“狭間”に向かって歩き出した。

見えるものにしか見えない。地球とここを繋ぐ門。



「この門をくぐって地球に行け。この国はお前には相応しくない。」

「サヨナラ、なんだね…」



 少年の顔が一瞬俯き、そっとまた悠離を見つめる。

そして少年は悠離の身体から狭間へと身を投げ出した。

空間の歪のような景色。風のような重力が身体にまとわりつき

力づくに先へと引きずり込む、少年は出来る限りに身体をよじり

後ろ―悠離―を見た。悠離は物言いげな表情で少年を見つめ…



「私の名は、悠離。悠離だ…っ!!」



 狭間へと落ちない程度に身を乗り出し、もう見えるか見えないと

いう瀬戸際の少年に向かって叫んだ。

この声が届いたのかすらわからなかった…。













―to be continue―


やっとスマイルがあの場所から解放されました。
これからどうなっていくか、後のお楽しみということで…
これでようやく吸血鬼編も終わりに近づいてきました。


背景画像は「Studio Blue Moon」様より

BACKNEXT

CLOSE